特集

タイの飲食店で活躍する 私の履歴書

異国の地で奮闘する
僕たち日本人の胃袋を支えてくれている、食のプロフェッショナルたち。
バンコクで起業を決心したオーナーシェフ、会社から海外進出を任された駐在員シェフやマネージャーまで、
10人に十色の半生を語ってもらいました。
彼らはここバンコクで、どのように新しい道を切り開いてきたのか?
普段はなかなか垣間見ることのできない素顔に迫まります。

2022年4月20日現在、バンコクのレストランでは店内飲酒23時まで(SHA+ / Thai Stop COVID 2-Plus認証店のみ)の措置が取られています。
これらの制限がいつ解除されるかは決まっておらず、
本誌発行日(5月1日)には状況が変わっている可能性があります。
営業時間についても、各店変更の可能性がありますので、
ご利用時に直接店舗にご確認のうえ、お出かけ下さい。

【目次】

1. にく処 鈴㐂
2. 原始焼き26
3. ばんや アソーク
4. ふるさと
5. 麺酒場 いちから
6. 大の樹
7. No Name
8. 洋食にいがた
9. しゃかリッチ
10. ヒナタ
11. 伊勢
12. カネヒサ
13. ケリーズ
14. コリアンテーブル
15. 伊勢の国 サクラサク
16. 肉亭あらた
17. 水琴
18. 和牛しん

にく処 鈴㐂


右:鈴木基弘 (44)
左:鈴木祥広 (43)


出身:大阪府
好きな店:あぶり石田、Lenzi Tuscan Kitchen(基弘)六九麺、Artisan Craft Burgers(祥広)


基弘(М):ひい爺ちゃんの代から飲食業で、僕らが生まれたのは大阪の寿司屋。その後、寿司職人の父のもと奈良で育った息子は2人とも飲食業。強要されたわけでもな く、むしろ止められたほど。

祥広(Y):それ以外の仕事を知らなかったんじゃないかな。親の仕事みてたら知らん間にカタにハマったみたいな。
М:そんな奈良の田舎で育った僕らが不思議なことにふわっと海外に出て行って。僕は大学時代ボストンに4年留学していたのですが、NYで訪れたNOBU TOKYOの接客にいたく感激し、帰国後はNOBU TOKYOでサービスマンとしてキャリアをスタート。テーブルを担当させてもらうのに半年かかりました。
Y:大学に進学したものの、勉強に意味を見いだせず19歳で退学。その後は大阪の老舗料亭に世話になりますが、そこはおやっさんを頂点とする年功序列の世界。板場の二番手さんに口をきいてもらえるまで半年かかりました。

М:俺よりひどいな(笑)。僕はNOBUの後、星のやリゾートを経て外食産業のコンサル会社に入り、海外事業の立ち上げでシンガポールに渡りました。行った先はカジノリゾートのホテルに併設された高級日本料理店。ひとテーブルのお会計が400万円、でも次のゲームで1ベットで取り返せるから…みたいな見たこともない世界でした(笑)。お店をプロデュースされていたのが「京都吉兆」の総料理長で、事前に「京都吉兆」で研修も受けていました。

Y:昔、留学中の兄を訪ねて行ったアメリカの活気に圧倒されたんですよね。ここに住みたい!と心にずっと残っていて。料亭で5年ほど修業した後、単身アメリカに。運よくウォルドルフアストリアNYに職を得て、仕事も覚えてくると、少しずつ見えてきたものがありました。お金を集めて広告をバーンと打って、芸能人を呼んで知名度上げて、二年後にはもうお店を売り抜ける。料理人とお客さんの関係性など二の次で、レストランビジネスなんですよね。現場の人間としては少し哀しいなと。
М:ある日、大阪の道端でシンガポール時代の会社の後輩と奇跡的な再会を果たしたんです。聞けばいま彼は岡喜のオーナーで日本・タイ・シンガポールを行き来していると。牛肉を世界で扱うということ、農家の思いと商品を直接届けるということ。彼から語られる牛肉の世界に興味を惹かれ、41歳で来タイしました。

Y:27、8歳でフランスに来てから15年。ミシュラン星付き店も料理長も経験し、このままフランスの墓に入るのかなと漠然と思っていた時に、タイで店を開く話が具体化してきたんです。

М:弟が先にガチガチの料亭に勤め始めてけっこう職人気質でしたので、過去に二人で独立しようと誘った時は「俺の技量をあてにしてるだけやろ」ってふられたこともありますし。逆に彼が国を変える転換期では僕は別の仕事してたりで。
Y:お互いずっと意識はしていたけど、仕事だけじゃなく家庭も含めて、タイミングが合うかどうかですよね。極端に言えばコロナのお陰かもしれません。飲食は朝から晩まで拘束される仕事なわけで、10年20年経験してじゃあ自分の店を持とうとなった時に、弁護士や会計士と打合せ、物件を見る時間をどう捻出するの?って。実際パリの知り合いでも、コロナ期間中にようやく動けて独立した人も多いくらいです。

М:そこが飲食はブラックと言われる所以。いつか会社を作るならと温めてきた理想が弟も僕も共通してあります。一言でいうと「夏休みの取れる会社」。海外を経験してると「夏休み5週間」とか人生にそういう期間が毎年あるんですが、5週間あれば色んなことが出来る。資格にも挑戦できるしマチュピチュにも行ける。それを実現するには従業員も多く必要だし、越えなきゃいけない山はいっぱいあるんですけども、飲食だから少ない給料だと諦めて日銭を稼ぐのではなく、仕事を覚えれば給料だって5万バーツにも8万バーツにも上がる。現地スタッフにもそうした夢を持ってほしい。僕らの夢とあなた方の夢が重なっていけばいいと、きれいごとではなくそう思ってます。

自慢の一品

近江牛のタルタル(680B)
フランス伝統料理のタルタルを近江牛で贅沢に。自家製ポン酢の清涼感も◎

にく処 鈴㐂

原始焼き26


FCO
小澤将生(39歳)


出身:栃木県
好きな店:About Eatery、Wine connection


バイト先だったステーキ店のオーナーシェフが、高いレベルの仕事を僕みたいな高校生にも求めちゃう人で、おまけに短気。怒られまくって反発心を糧に必死で仕事を 覚えるうち、だんだん褒められるように。そうすると仕事も楽しくなるもので、19歳でホールを任され、接客などサービスの面白さにも目覚めました。思えばここが食の業界に入る原点ですね。21歳のころ東京を目指そうと、車を売って作った10 0万円を前に考えたんです。東京で100万円なんてすぐ消えるだろう。だったら…と、ワーホリ制度を使ってオーストラリアに飛びました。結局その金も海外にいりゃすぐに底をつく結果になるんですが(笑)。多人種が働く寿司屋の厨房で異文化に触れたのも、のちの海外志向に繋がったかもしれません。

帰国後は料理人として技術も磨く傍ら、プロのサービスマンになる意思を固めていました。キッチンが料理のプロなら、サービスマンはより美味しく食べていただく手伝いのプロ。技術を早く習得したくてあえて厳しい店を選んだりもしましたね。その後オファーを受けて移籍した会社に11年勤め、新規事業の社長をするという道筋も見えてきた頃、ここを逃せば独立のタイミングはないと辞表を提出。タイでFCオーナーの道を選びました。いま改めて、日本の最新の設備や技術、ホスピタリティは凄いとつくづく感じます。車や部品の業界では既に評価されているように、料理の世界も、パリの有名店で日本人シェフが要職に就く事も珍しくありません。日本だと当たり前の接客もタイのスタッフにはなかなか伝わらずもどかしい思いもしますが、だからこそそこに道が開ける。そう確信しています。

自慢の一品

肉の山火事どーん(499B)
平日ランチ3食限定

原始焼き26

ばんや アソーク


オーナー
照沼徹朗(48歳)


出身:茨城県
好きな店:麺匠Tokyo、地鶏料理けん、炭火焼源


学生時代のバイトは全て飲食関係で「いつか自分の店を」と夢想しながらも、無難に一般企業に就職。誰しもあると思いますが、30歳あたりで人生を見つめ直す時期がやってきて、後悔ないようにと飲食の道に進みました。中小企業だったので、料理だけでなく経理、内装、新規事業のコンセプトの立て方から不採算店舗の立て直し方まで、社長業以外はほぼ全てが回ってくる感じ。特定分野に留まらず、幅広く携わった経験が今の仕事に生きていると思います。毎年同じルーティンで仕事をこなすうち10年が経ち、流れを変えたくて海外進出の話に手を挙げました。それまでタイに住むなんて考えすらなく、とりあえず「地球の歩き方」一冊読んだだけの薄い知識で来タイ。

その後は会社の海外進出がいったん白紙になったのを機に退社し、2013年、プロンポンに「ばんや」をオープンしました。念願だった自分の店も、面白い反面、試行錯誤の連続です。お客さんに求められるがまま受け入れるわけにもいかないし、かといって自分の世界観を打ち出しすぎてもニーズがなければ流行らない、そのさじ加減が難しい。結局、そうやって考えるのが好きなんでしょうね。でももし僕に来世があるなら、飲食業はやりたくない。オフの日の買い物でも「これ店で使えそうだな」、他のお店で食事してもメニュー構成や価格帯、そこに至るまでの理由や紆余曲折まで想像するクセがついてしまって。出された料理をただ心から「美味しい!」と感じながら外食を楽しみたいです。もう今世は諦めましたけど(笑)。

自慢の一品

ばんや特製おでん鍋(269B)
味のしみた大根や練り物など全6種。特製の甘味噌をつければ日本酒のアテに最高

ばんや アソーク

ふるさと


マネージャー
浅見知夏(32歳)


出身:埼玉県
好きな店:しゃかリッチ


やってみないと分からない。で熟考の前にまず行動に移す性分なのかもしれません。映画で見たアメリカの学校の自由な空気に魅せられて、中学生の時にカナダにホームステイ。その後、念願のアメリカ留学も経験しました。卒業後は日本で事務系のOLをしていましたが、ある時「ふるさと」のオーナーである叔父から打診され、店を引き継いだのが4年前です。話をもらった時点ではタイという国のイメージも希薄だったし、家族にも心配されましたけど、細かいことを考え始めたら先は見えないし、人見知りも克服できるかもしれない、挑戦してみよう! と。

けど、人格はそんなにすぐ変わるものじゃないですね(笑)。昔からの常連さん、応援して下さる方に支えてもらいながら、皆さんになるべくいい時間を過ごして欲しいと奮闘する中での、コロナ禍。当然お酒は出せません。自分たちは居酒屋という立場から外れたら何が残るのか? お弁当に転用できる料理なのか? ランチを出すなら? 価格を抑えるなら? と多くの問題に直面した時、まずは出来ることをやろう、今しか経験出来ないはずだと、すぐ行動に移しました。献立を考え、調理法を教え、配達して…とこれまでと違った形で時間に追われる日々。ピラティススタジオとのコラボで健康や美容の食事改善メニューに取り組んだ時は、栄養士さんとお話する機会もあり、栄養素や塩分について考えを深めるキッカケにもなりました。仕事って続けるうちいつしか流れ作業になるじゃないですか。コロナを乗り切る苦しい期間も、今では必要な時間だったなと思います。

自慢の一品

埼玉県秩父地方の郷土料理を中心に、刺身、寿司、鍋、季節の一品が揃う。特に地元秩父より届く山菜を使った料理は人気

ふるさと

麺酒場 いちから


オーナーシェフ
森賢司(45歳)


出身:福岡県
好きな店:広島、MKレストラン


漠然と、大学卒業後は地元福岡の企業か学校に勤める気でいたんです。それがひょんなことから友達に誘われたタイ旅行で「外国で働いてみたい」と思いが募り、2001年、タイ語学校と並行して旅行代理店に就職。初めての社会人経験でした。その中で広島で外食事業を手がける社長と知り合い、タイで一緒にラーメン屋やろうと声をかけてもらって。タイ式の屋台で本物の日本のラーメンを出す、当時としては新しい試みでしたが、結果はあまり奮わず、着の身着のまま日本に帰ることに…。もう一度タイで再起するんだと心に誓い、広島の社長の元で中華料理の修業を精を出しました。その会社の先輩料理人はみんな「仁義なき戦い」に出てくるようなコワモテばかりで…みんな優しかったけど「虎の穴」みたいなプロ養成所で(笑)。お客さんに出せるまでひたすら何年も鉄鍋をふって、ようやく認められた時は嬉しかったですね。

月日は流れ、東京支社の支社長を任せてもらえるまでになり、特に大きな不満もないまま、でも40歳手前で「これでいいのかな?いつの間にかタイに戻ることも忘れていたな」とそんな気持ちがふつふつと湧いてきてしまって。再びタイの地を踏んでからは、大手居酒屋やラーメン店で仕事に打ち込み、これまであっという間だったと思います。もともと独立心旺盛なタイプでもなかったのですが、良くも悪くもコロナが後押しした形で独立もしました。今回、店舗を立ち上げるに辺り、今までに知り合った日本人、 タイ人問わず多くの方達に支援いただき、前の店で長く一緒に働いたメンバーもついて来てくれた。皆様には感謝しかありませんが、責任も重大です。それだけにお客さんも従業員も、全員が幸せになる店作りを目指したいですね。

自慢の一品

スタ満徳二郎らーめん(299B)
多くのメニューの中でもイチオシのガッツリ系。豚骨醤油スープにパンチの効いた具材が盛り沢山

麺酒場 いちから

大の樹


オーナーシェフ
イップ・シャーマン(45歳)


出身:イギリス
好きな店:雅人、Giglio Trattoria Fiorentina


私の経歴はやや異色かもしれません。大学までを英国で過ごし、就職は日本。いくつかの転機を経て米国GE社で人事の仕事に携わり、以降は人事畑一筋に歩んできました。40歳前に役員になるという目標も達成し、40歳でタイに転勤。3年の任期を終える頃、先の人生を具体的に考えました。次の転勤はアメリカか、日本に戻るのか。自分はタイに残りたい。でもどうやって?「お金を儲ける手段」と「本当にやりたいこと」は一致しない。お金を理由にやりたくないことを優先したり、やりたいことを後回しにしてないか?ミッドライフクライシスじゃないけどあれこれ悩み抜いた末、キャリアを変える決心をしました。怖くなかったか?定年まで残り25年として、同じこ とを続ける未来を想像したら、そちらの方が怖かったんです。もともと料理は好きで、フレンチを学びにル・コルドン・ブルーに通った時期もあります。研究を重ねて完成に向かうプロセスが楽しいし、突拍子もない失敗から生まれる発見も多く、意外性があって料理への興味は尽きません。最終的に食べる方に喜んでいただけるのも最高です。

ただ、いきなり店を開けるのは難しい。フレンチのコースを出すケータリング事業を立ち上げたのは、自分の腕がどこまで通用するかの挑戦でもありました。幸い受け入れられて自信もついた頃、運命的なご縁もあって「大の樹」を引き継ぐことに。伝統をしっかり守った懐石料理にフレンチの技法を取り入れながら、日本食の魅力をまた違った形でお伝えしていければと思ってます。尊敬する「祇園さゝ木」のご主人・佐々木氏の言葉に「美味しいも嬉しいけど、楽しかったと言われるのが一番の褒め言葉だ」というのがあり、私もそこは目指したいですね。

自慢の一品

会席コースの椀物
浅利ビーツラビオリと120gの蛤が入る。蛤は一番出汁とフレンチの手法でとった浅利のジュをブレンド

大の樹

No Name


麺ターテイナー
井上慎史(43歳)


出身:福岡県
好きな店:新道ラーメン、うま馬、麺屋NARUTO、らーめん味彩


一度は芸人として生きてみたい。そんな思いから福岡を出て29歳でNSC東京(よしもとのお笑い養成所)の門を叩きました。ラーメンを始めたのも同時期で、ラーメン屋としても遅い方じゃないかな。知れば知るほど興味深く、次第にラーメンの虜になりましたね。転機は忘れもしない35歳の時。普遍的な「中華そば」に強い衝撃を受けたんです。永福町の大勝軒、荻窪の春木屋、どれもむちゃくちゃ旨い!って。芸人として方向性に悩んでた時でもあり、本気でラーメンに賭けようと心に決めた瞬間「エンタメから麺タメ」というフレーズが頭の中を駆け巡りました。そこからは麺タメを追求すべくひたすら勉強し、仲間と高円寺に「六九麺」をオープン。

渡タイ後は日本料理店「天翔」(近日再オープン予定)、六九麺バンコクの立ち上げのお手伝いをし、やがて自分でやりたい気持ちが膨らんできた。ただ独立にあたっては、技術も知識も足りないと、一度日本に戻って全国の気になるラーメン屋に足を運び、頼み込んで働かせてもらったりもしました。弟子入りは芸人時代からの得意技なので(笑)。そうして完成させたのが、クラシックな中華そばの考えをベースに、最高の素材と最先端の技術で再構築した一杯です。モノづくり大国としてタイに技術を伝え雇用を生んだ日本も、最近は少し元気がないように見えます。ラーメン作りを伝えることで回復の一助になれば嬉しいし、タイに来た日本人として少しは意味があるのかなって。そんな風に感じてます。自身のラーメンの追求と現在コロナ禍で閉店している天翔の再オープンに向けて邁進します。

自慢の一品

北海道産帆立と浅利の淡麗 潮そば (420B)
個性的なラーメンを提供しています。

昆布水つけそば (440B)
個性的なラーメンを提供しています。

No Name

洋食にいがた


シェフ
渡部雄樹(31歳)


出身:新潟県
好きな店:大連飯店


今から30年前、僕の祖母はまだ砂利道だったスクンビット通りのあの場所に「キッチン新潟」を開き、女手ひとつで切り盛りしてきました。ベシャメルソースから作る大きなカニクリームコロッケ、どこか郷愁を誘うケチャップ味のチキンライスドリア、これら「キッチン新潟」の料理は、はるか昔の洋食が憧憬された時代に、祖父がホ テルなどで食べ歩き、祖母に伝えて再現させたものです。それが渡部家の家庭料理として定着し、僕も当たり前にこの味で育ちました。僕も食べ歩きが好きで、料理を再 現しては人にふるまうのが好きな子どもでしたから、祖父と同じですね。18歳で割烹店に入り、板前修業を積んできました。高齢の祖母を手伝うためタイにやって来たの は5年ほど前です。追って母も来タイし、家族3人で力を合わせて経営してきたものの、コロナで営業が不安定になり、長く一緒に働いてきた従業員も相次いで辞め、お店を閉めざるを得ない状況に。

店を買い取るという人が現れて、権利を譲渡したのを機に祖母と母は帰国しましたけど、祖母から継承した「新潟」の本当の味を自分の手で繋げていきたい思いもあって、僕だけはタイに残る選択をしました。まずはデリバリー事業に特化して、お弁当やお惣菜、プロダクト開発を通じて、店舗に足を運んでいただかなくてもこれだけ美味しいものに出会えるんだと感じてもらいたい。そして将来的にはタイの方へも、伝統的な和食だけではなく、西洋料理を独自に進化させた日本の味、日本人の心を「洋食にいがた」から発信していけたらいいですね。

自慢の一品

ハンバーグ弁当 (Robinhood267B LINEMAN297B)
キッチン新潟の味を受け継ぎつつ、デリバリーでもジューシーで美味しく食べられるよう工夫されている

洋食にいがた

しゃかリッチ


しゃかリッチ料理長
福川諒さん(31歳)


出身:大阪府
好きな店:オカージュ、レンジ、シャングリラ、シェフマン


 初めて料理の世界に入ったのは18歳の時。アルバイトの経験もないままに、叔父が総料理長を務める白良浜の旅館に住み込みで入れてもろたんですが、厳しすぎて泣いて大阪に帰りました(笑)。 叔父から、まずは居酒屋からやってみたらどうや?とチャンスを貰い、心を入れ替えて再スタート。その後は居酒屋の親会社の日本料理へ移り、雑用からがむしゃらに奮闘しましたが、最初のうちは何も教えてもらえないし、食材にも触らせてもらえず、それでも若さも手伝って、てっぺんとったる!くらいの勢いで修行に明け暮れました。そのうちに、空き時間に「ちょっと、やってみる?」と教えてもらえるようになって、自分の幅が少しずつ広がっていき、10か月経った頃に、その店の味の核になる煮方を任せられ、達成感もあって全てが楽しかったです。その後も、料理長同士の繋がりの紹介でいろんな調理場を経験し、声もかかるように なり、神戸の名店や中華料理、イタリアン、フレンチと経験を積んで、22歳の時にホテルモントレから声をかけて頂き グラスミア大阪「随縁亭」で働くようになりました。シフトが立てやすいホテルの性質を活用し、休みの日に料亭などに助っ人、通称“助さん”に行ったり、黒門市場に通い詰めて魚を捌かせてもらったり、美味しい漬物屋さんを見つけて出勤前に通って教えて貰ったり。とにかく料理への探求心が止まらなかったし、料理の世界で稼ぎたいという思いも強かったです。24歳で初めて料理長に抜擢され、その後も店の繋がりで立ち上げに参加したり、大役を任せてもらったりもしましたが、あるお店で元々いたスゴ腕の料理チームがごそっと抜けてしまって、僕一人がどんだけ奮闘しても料理は遅れてしまうし、出来ることは限られるし、それまで50人集客できていたランチのお客さんが30人、20人とどんどん減りました。そこから、後輩たちに一つ一つ教えて、段々チームが形になっていくと客足が伸びて、100人超えた時は嬉しかったです。  この経験で、思ったんです。僕一人出来ても意味ないなって。人と共有する、次に繋げる必要があるって。日本でいろんな料理の経験積んで、海外への興味が強くなりました。そんな時に弊社代表の清水に出会ったんです。「タイおいでよ」「はい、行きます」こんな感じで、お互いの事をよく知らないままに、ほんまにタイに来ました(笑)。それからは、文化の違いや言葉の壁もありスタッフにどう説明すれば、どう見せれば理解して貰えるか、スタッフ中心の料理と道筋を考えながらやってます。 僕ありきではなく、スタッフを指導していくことでチームとして残っていくお店作りをしたいと思ってます。先日、カセサート大学に招いて頂いて、魚の活け締めと捌き方 の講義をしたのですが、学びたい意思のある生徒さんに教えることに、すごく喜びを感じました。作り方やレシピだけでなく、なぜこの工程が必要なのか?この工程を踏むことでどうなるのか?まで細かく伝えることで、料理への興味を深めてもらったり、より美味しいものを提供したいと思ってもらいたいって思うんです。タイに来て感じるのは、日本の当たり前が絶対ではない、日本の感覚でおったらあかん!ということ。文化の違いや言葉の壁での苦労も多いですが、そこも含めいろんな経験と気づきがあり、タイに呼んでくれた清水社長には感謝してます。

自慢の一品

土鍋アラ汁(299B/ハーフ199B/ミニ99B)
鮮魚の骨、大量の野菜の皮などから出る栄養と旨みを、じっくり丁寧に引き出した黄金のスープ

しゃかリッチ

ヒナタ


CEO
長谷川真也さん(45歳)


出身::兵庫県 
好きな店: Smile


 小学生の頃から家族の食事を作り始め、美味しいねとおだてられて嬉しく、将来は調理師になろうと心に決めていました。高校を出てすぐにでも調理師学校に入る気で いましたが、周囲に勧められ大学に進学。卒業後は「白木屋」を擁するモンテローザに入社しました。現場に出てみると調理に携わることはほとんどなく、また、調理技術も足りてないと痛感したのを覚えています。料理への想いが募り、回り道したけど、ホテルオークラ神戸の門を叩きました。全く未知のフレンチの世界でゼロからのスタート。知識や技術の幅が広がるのを実感し、充実の4年間を過ごしました。次に「ふらんす亭」チェーン本部のマネージャー職を務め、経営マニュアルほかフランチャイズの仕組みを学びました。その後、地元に戻って働こうと入った会社で「丸亀製麺」に配属されたことが、僕の運命を大きく変えたのです。やり始めると、粉、出汁、材料の選び方、一杯のうどんを作るのにこれほど労力がかけられているのかと驚いたし、その奥深さに探求心も刺激されて。何度も四国に足も運んだり、なぜ?どうして?と掘り下げる、飲食店の深い根幹の部分を勉強させてもらいました。地元で仕事したいと帰ったはずが、いつしか西日本を統括するマネージャーとして忙しく全国を歩き回る日々。社員教育や新店舗立ち上げの部署を任されるようになり、初の海外進出の現場にも立ち会うことに。それまで海外志向でもなかった僕だけど、これは行 くしかない、何でも体験してやろうとタイにやって来たのが、今から10年ほど前です。  他の麺料理に比べて、うどんってニッチな存在だったんですよ。教わるタイ人もわけがわからない。ここでプッシュ!ホット!なんて片言の英語で厨房に伝えながら、コミュニケーションとはとどのつまり、語彙の多さではなく、伝えたい想いと理解したい想いが重なった時に通じ合えるという得難い経験もしました。当初は1か月のサポートの予定で来ていたタイも、すでに3か月が経っていました。タイ語も少しずつ覚え、なにより、日本にこもっていた時には知らなかった違う価値観に触れ、今までと違う世界が開けたんです。  丸亀の仕事で再び渡タイし、ベトナムやマレーシアなどASEAN諸国を周りました。任期の終わりが見えた頃にはもう海外に7年くらい関わっていて、ずいぶん日本も長く離れてしまった。このまま日本で歯車の一つとして働くか?帰国したらもったいなくないか?自分って何がしたかったんやろ?と長い自問自答の末、自分は料理作ることが好きやったな、お客さんと話したり、工夫して美味しいと言ってもらえるのが喜びだったな、と思い至りました。組織に所属していると、肌感覚でこうしたらええのにと思うことがあっても実現できません。せっかくの経験値を形にしたい思いもあった。大きな看板から外れて個人で勝負するのはラクではないけど、ホームランを狙わず、バントで小さく当てて塁に出る。それが自分の性分に合っています。商売なので結果は残さないといけないけど、金儲けだけがしたいわけじゃない。ここにずっと居続けてこの先20年、30年生きていける仕事を模索し、骨太で大衆的な居酒屋を目指したんです。お客さんとの関係を積み重ね信頼を得て今、コロナ下でも来て下さいます。自分でやりたかったことだし、楽しむのが一番。焦る必要はないと思ってます。

自慢の一品

串焼き(1本20B~)
自慢の串焼き・串揚げは全50 種。素材や仕込みに一切の妥協はなく、的確な火入れで旨みを閉じ込める

ヒナタ

伊勢


総料理長
古澤光治さん(42歳)


出身:東京都
好きな店:ラ ココリコ、El Mercado、みかみ


 学生時代のバイト先の居酒屋で、料理の世界にのめり込みました。でも大学卒業後、就職したのは食品メーカーなんです。ゆくゆくは商品開発に関わりたいと考えてのことでした。主に冷凍食品を扱っていましたが、大きな組織の中、工場生産という形で、自分が本当に納得の行く美味しいものを作り出すことに難しさを感じ、料理の道に入ろうと一念発起。沖縄のホテルの中華料理店で基礎から一通り学ばせてもらえたのは貴重な経験です。次第に、誰でも手が届く価格で美味しいものを作りたいと願うようになったのは、旅行先のタイで出会ったカオパットの影響があるかもしれません。とびきり美味しくて一皿20B。衝撃でした。東京に居を移し、タイ料理店で修業をしている頃、ワーキングホリデーでオーストラリアに渡航する友人の送別会がありました。その店に偶然「ワーホリに行こう!」ってチラシが貼ってあったんです。僕は参加資格ギリギリの30歳。半ば衝動的に「タイにワーホリに行きたいんです」と電話したところ「タイでは実施してませんが、斡旋の手伝いなら」と親身に相談に乗ってくれて。結局、仕事は自力で探し「伊勢」と出会いました。思い返すとあっという間で、日々忙しく働いてるうち11年経っていたような感じ。自分が本当に美味しいと感じるものをその場で食べてもらえる仕事に、今もなお魅力を感じ続けています。

自慢の一品

燃える!エビ炒飯(328B)
大きな炎が立ち上る!こんがり焼けた海老の香りと旨みを味わう、ワンランク上の新感覚炒飯

伊勢

カネヒサ


オーナーシェフ
藤井威久さん(43歳)


出身:北海道
好きな店:アビーズ9、がるしあ、深夜食堂、しゃかリッチ


 大戸屋初の海外事業がタイでスタートした2005年、駐在でやって来ました。いかに少人数で効率よく回し、大量の料理を作れるかが日本のシステムだとしたら、タイは人数増やしてでも、一つ一つ丁寧に出していけという考え。次第にノウハウが蓄積されていき、タイを拠点に、インドネシアやシンガポールの手伝いにも行きました。5年が過ぎて一旦帰国。新しく始まる蕎麦業態のため、東京下町の蕎麦学校で手打ちの技術を学んだ後、今度はベトナムに飛んだんですよ。ベトナムから今度はニューヨークへ、またベトナムに呼び戻されて…。それで、2015年かな?ニューヨークでいろいろと考える機会があって、退職を申し出ました。有給休暇消化のタイミングで広島、沖縄の友達を訪ね歩き、同じ流れでタイにも遊びに行ったんです。紹介されたのが隠れ家グループの社長で、共通の知人も繋がりも多いことが判り「やることないなら一緒 に仕事しませんか?」と声をかけてもらって。2019年にカネヒサをオープンするまで、「隠れ家」にはお世話になりました。自分にとって料理は趣味であり仕事だから、休みがなくても全然平気というか、毎日楽しいんですよ。趣味はなんですか?――仕事です。お休みの日は何してるんですか?――仕事です。みたいな(笑)。

自慢の一品

もり蕎麦(260B)と鶏ガラつけ蕎麦(320B)
香り高い日高昆布を使用したつゆのほか、鶏ガラベースの白湯つゆも人気。つゆに合わせて麺を打ち分けている

カネヒサ

ケリーズ


51店スタッフ
葛谷鉱平さん(46歳)


出身:愛知県
好きな店:のんき屋、和久


 小学生からずっと「将来の夢はコックさん」でした。高校卒業後は調理師学校へ進み、早い段階で老舗の鰻屋に就職を決め、鰻の修業を12年ほど積みました。その 後、縁あって産業給食の世界に。決まった流れの中で千食単位という大量の食事を提供していくんですが、配属先の社員食堂は夜勤明けの利用者も多く、食事を楽しみに来るというより、とりあえず腹を満たしたい、早く食べ終わって仮眠したい、そんなムードも濃厚で。黙々と働くうち10年の月日が流れ、ある日突然、自分がロボットに思えてきて、これはマズいなと。そんな中フラリと寄った服屋で、後の友人で、人生観に強い影響を与える店員と出会いました。彼の接客からはこの仕事が好きで、心底楽しんでいるのが伝わってきたんです。聞けば彼も、僕と似た境遇というか、安定と引き換えに辛かった前職を捨てての、覚悟のアパレル入りでした。ほどなく僕も彼と同業となり、忙しくも充実した日々を過ごす中で、紆余曲折と運命的な出会いがあり、親身になって話を聞いてくれた方が背中を押してくれて、再び飲食に戻ってきました。実は20年以上前、鰻屋に進路を定めた後、スイスのホテルで求人があったことを知り、海外への漠然とした憧れがあった僕の中で「もっとじっくり就職先を決めてもよかったかな」と、微かな後悔が残っていたので、44歳でのタイ出向は嬉しかったです。

自慢の一品

鉄板ナポリタン(210B)
昔懐かしナポリタンを薄焼き卵でくるんだ、愛知発祥のB級グルメ。飲みの〆にも人気

ケリーズ51

コリアンテーブル


シェフ
ジュリ・ユーさん(40歳)


出身:沖縄県
好きな店:天ぷらや


 それまで働いた経験のなかった私が、行きつけの韓国料理店で目にした「バイト募集」にふと応募したくなり、働くうちに魅せられてハマって、スピード独立。以来5 年間、がむしゃらに経営してきました。順風満帆でもないですよ。オープンから半年後、それも年末のかき入れ時に、従業員のたばこの不始末で店が半焼しましたし。何 とか体制を立て直したけど、目の前のことにただ必死で、泣く暇なんてありませんでした。一人社長で心身ともに疲れ果てて、お店を譲渡し地元沖縄に戻ると、焼肉店のオーナーからタイに行かないかと声がかかって。沖縄から富山に飛んで焼肉修業を重ね、牛の解体技術も身につけました。ちなみに、すっぽんの捌き方を習いに料亭に 通ったこともあるんです。興味が湧くと何でも挑戦したいタイプなんで。時には失敗もあるし、何度か人生のどん底も見たけど、自分の行きたい道しか歩いてないから、振り返っても後悔は全然なくて。人って結果が全てで、いま置かれた環境は自分が積み重ねてきたことの集大成。悔やんだところで変えられないしね。タイは今年で4年目になります。結局のところ、何をしに海外に来たのかですよね。遊びに来たのか、一攫千金狙うのか。私はビッグチャンスを掴む!に近い感覚です。今も一段ずつ階段を昇っている最中なので。

自慢の一品

ヤンニョムケジャン(一匹500B、二匹900B)
仕込むのは、活カニが入荷した時だけ。秘伝のタレを吸ったカニ味噌も極上の味わい

コリアンテーブル

伊勢の国 サクラサク


料理長
伊藤成浩さん(46歳)


出身:岐阜県
好きな店:極楽トンロー店


 「こだわりがないのがこだわり」――そう同業者に言われる通り、店には確たるコンセプトを設けてません。老舗料亭を振り出しに、30 年以上の板前歴の中には、タイでの和食経験もあります。「長い目で見たら、ガチガチの専門店は難しい。何でもあって一店舗で完結するのがタイのスタイル。でなければ生き残れない」、それが前回のタイで学んだことでした。縁あって再びタイに渡り、店を持った今も、ジャンルや枠にとらわれず、お客さんの要望に応える姿勢は変わりません。結果、喜ばれれば嬉しいし、マズいと言われりゃ腹も立つ( 笑)。僕は不愛想だし口悪いし、料理を作る以外はもうマイナス要素しかない。ただ、納得いかないものを出すようになったら、それこそ全部が台無しです。厨房でも、自分が求める合格点よりラインを少し下げ、そこさえも達成できないものは目の前で捨ててます。日本人から見て「これのどこが?」と思うレベルでもね。昔の和食の世界の「見て覚えろ、厳しい修業に耐えろ」は今は通用しませんし、そもそも日本文化や味になじみがない外国人は分からんでしょ。僕らがタイ料理の真髄を分からないように。けれども、お金をいただくからには高い所を目指すし、自分の持てるもの全てを投げ出してでも伝えたい。そう思ってます。

自慢の一品

すき焼き(1人前980B~)
黒毛和牛の上品な甘みが口いっぱいに広がる贅沢な一品。これを求めて来店するリピーターも多数

伊勢の国 サクラサク

肉亭あらた


オーナーシェフ
新村功さん(44歳)


出身:愛知県
好きな店:博多うま馬


 実家は自営で、物心ついた頃から仕込みの手伝い。楽しいと思ったことはありません。なのに同じ道を志し、自然とこの世界に入っていました。最初に修業したのはホテルのフレンチで、この時の経験が自分の背骨になっています。以降はジャンルを固定せず、西洋料理や居酒屋、B a rと縦横無尽に駆け巡り、「バーテンダーなら頑張り次第では半年で一人前になれる」の言葉に背中を押され、24歳で独立。当然そんな容易なものではなく、商売の難しさを感じ始めた頃、先輩に「酒は水を売るだけではない」と言われたんです。そこからは全国の酒蔵に足繁く通い、造り手と会い、その方たちの人間性や情熱や努力に、直に触れました。日本酒が何万年もの歴史と文化 を背負っていること、それを一杯の酒を通して味わってもらうのだと知れたことは、今に繋がる大きな糧となったと思います。また当時、地酒と共に日本各地の郷土料理に興味を持ったことは、現在の創作スタイルにも繋がっています。その後は名古屋市に「駅前ホルモンあらた」をオープンし、今年で16年目を迎えました。いま何を求めているのか?ニーズはどこにあるのか?料理を作りながらも経営者として絶えず観察しつつ、伝統的な日本の食文化や新しい価値観を一皿に込め、ここタイでも発信できたらいいと願っています。

自慢の一品

和牛サーロインかつ(1,580B/150g)
微細に挽いたパン粉をまとわせた和牛を極レア仕立てに、肉汁と旨みを閉じ込めた逸品

肉亭あらた

水琴


シェフ
竹村仁志さん(37歳)


出身:大阪府
好きな店:ソンブーン、あぶり石田


 一人暮らしを機に料理にハマり、いくつかの居酒屋にお世話になりながら、基礎から和食を勉強させてもらいました。自分の料理でお客様が喜んでくれた時は嬉しい 気持ちになりましたし、反応がダイレクトに返って来るこの世界に、どんどん魅せられていって。料理の勉強と並行しながら、世界をバックパック一つで旅行したのは、今もいい思い出です。現地の乗り物だけに乗り、現地食だけを貪欲に食べ歩くぞ!と自分に課したり、英語もろくすっぽ喋れないのにいろいろと交渉をしたり。ベトナムのハノイからホーチミンまでママチャリで縦断したこともあるんですよ。途中、腎不全に罹って手術からの強制帰国、というオチですが(笑)。さまざまな経験を通じて、海外で働きたい想いはいっそう募ったように思います。30半ばという年齢に差し掛かり、このままでは絶対後悔する!と移住を決意。選択に一切の迷いはありませんでした。まぁ、ダメやったら帰ってこよう精神はあったけど(笑)。インターネットの求人と、先輩のツテをたどって現在の店に入り、今は調理に関わる全てをやらせていただいてます。来る前に想像していたタイより10倍は楽しいかな。食材が限られることもありますが、そこを創意工夫で楽しんで作れるのがいいシェフですから。

自慢の一品

カニクリームコロッケ(220B)
洗練を極めたベシャメルソースで丁寧に仕上げた、大人のための一品

水琴

和牛しん


Managing Director
進藤顕司さん(48歳)


出身:大阪府
好きな店:ワイン&串かついし本 トンロー店


 ホテルニューオータニでフレンチを約8年、ディズニーアンバサダーホテルで和食を4年やった後、オータニ時代にお世話になったフランス人シェフに誘っていただ き、スペインに渡りました。経験を重ねるうち他の国でも働いてみたくなり、次に台湾の五つ星ホテルへ。ここで意気投合したタイ人シェフを通じ、漠然としたイメージだったタイという国に、好印象を抱いたのを覚えています。その後たまたまいいオファーがタイから届き、ソフィテル、セントラルグループを経てコンラッドホテルに7年ほど勤め、気がつけばタイも通算10年が過ぎていました。ある時、こっちのシェフ仲間が経営する店の社員旅行について行ったんです。離島で夜はやることもなく、彼と一晩中飲みあかしながら、今が自分の店を開くタイミングかな?と、初めて具体的に独立を考えました。休みもあまり取れていないのに彼の姿が楽しそうなことと、「進藤ちゃんなら出来るよ」という言葉にも背中を押されて。ホテルの看板を背負って個人が出来ることには限りがありますし、ご覧の通り、私は大阪出身で喋るのが大好き。カッコつけた超高級店ではなく、等身大のお店を作ろうと思いました。去年8月のオープン以来、一日も休まず働いてますが、やっぱり抜群に楽しいんですよね。周りからもそう見えるようで、よく言われます。

自慢の一品

ビーフタルタルステーキ(580B)
尊敬するスターシェフに伝授されたフランス版ユッケ。「僕の中でも大事な一皿」と進藤シェフ

和牛しん

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